もうすぐあなたが一生を捧げてきた仕事が終わろうとしている
日ごとに暖かさを増していくうららかな季節　窓際の席であなたは日溜まりの中でまどろむ
３２年間この会社一筋で勤め上げてきた誇りからか　満足感さえ漂わせている

実直で不器用　それでいて優しすぎる性格が災いして出世が遅れた　
気づけば係長止まり　僕があなたの唯一の部下で　ちょうど２年前入社したての頃
親子ほど歳が離れた僕にあなたは　仕事を一から丁寧に教えてくれた

出先の営業回りでは　お客様を第一に考えた応対で　顧客からの評判も悪くはなかった
でも成績はあまり芳しくなく　よく年下の上司になじられていた

いつかふたりで行った出張の帰り　立ち寄った赤ちょうちんで落ち込む僕を元気づけてくれた
あなたは愚痴ひとつこぼさずに　僕の話を黙って頷いて聞いてくれた
あなたはいつもそうだった　そんなさりげなく飾らないあなたが僕は大好きだった
小さい頃親父を病気でなくした僕にとっては　あなたは父親のような存在だった

そんな心の支えでもあったあなたが　もうすぐ定年で会社を去ろうとしている
心にぽっかりと穴が空いたようだった
退職後のことを僕が訊ねると「田舎に帰って女房とふたりで畑でも耕してのんびり暮らすさ」
僕に向かって白い歯を見せて笑った　でも心なしかどこか寂しそうだった

そしてついにその日は訪れた　あなたはいつもと変わりなく朝一番に出社し
いつものように机を水拭きし　お湯を沸かした　それが３２年間繰り返された日常
お昼にはいつもの奥さんの手提げ弁当を平らげ　午後は慌しく残務整理を済ませた
そして日が傾きかけた時刻には　社内を丁寧にあいさつ回り　

やがて夕方５時　課長の号令で課内の全社員が集められ　あなたは最後の挨拶
そこには何かを成し遂げて燃え尽きた男の清々しい姿があった

若手の女子社員から花束を受け取り　少し照れたようにあなたの初老の顔がほころんだ
そして拍手が鳴り止まぬまま　あなたは静かに扉から消えていった
僕は居たたまれず　急いで階段を駆け下りて　あなたの背中を追いかけた

ちょうど玄関から出たあなたは　何かを思い出したようにふと振り返り
長年勤め上げた愛着のある社屋に向かい　深々と一礼した
そしてゆっくりと頭を上げたあなたは　僕の存在に気づいた
そこであなたは手に抱えていた花束を高々と突き上げた　
それはまるで無言で僕へのエールを送っているかのようだった

その時　あなたの唇がかすかに動き何かを語った　遠くてそれが何かはわからなかったが
何を伝えたかったかは　僕には痛いほどわかっていた
そして再び振り返り背中を向けると　弥生の満開の桜並木の中へゆっくりと消えていった

とめどなく流れる涙を拭いながら　僕は遠ざかるあなたの影に向かって　こうべを垂れ
心の中で何度もこう呟いた

「本当に長い間お疲れ様でした　あなたのバトンは私が確かに受け取りました　
　　　　　　　　　　　　　　　　　どうか安心してください　そしてありがとうございました」